エシカルノマドの指南書

世界放浪からオーストラリアへ移住後、物書きを生業とすべく帰国。自然に沿った暮らしをテーマに発信、今はエシカルとノマドの両立を目指す日々です

美しさや機能と引きかえに【エッセイ】

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最近やっと、原点回帰というか、健康志向を本当のところで理解し始めた気がします。

 

それはつまり、頭で考えてこっちの方がいいだろうとか、健康ってこういうものだよね、という机上の考えではなく、もっと本能的な部分で。そのおかげで今、私を覆っている様々なフィルターが1枚1枚、はらりはらりと捲れていくような感覚を味わっています。

 

例えば先日、スーパーで野菜を買おうと思って、はた、と野菜を探す手が止まってしまいました。

 

なんで、生姜がこんなに真っ白なのか…。

 

ふと、誰かのこんな言葉を思い出しました。

 

例えば「有機栽培の野菜です」と、表向きは謳っていて、栽培中は確かに有機栽培をしていても、収穫後に一気にまとめて漂白剤で洗浄する(ポストトハーベスト農薬というそうです)光景を目にしたことがある、と。

私がそのとき手にした生姜がそうだったのかは、わかりません。でも異様に白く見えたその生姜を、私はそっと棚に戻してしまうのでした。

 

そういえば、かつて母親がずっと、そのようなことを話していた記憶があります。

 

「にんじんとか大根はね、土の中で育ったんだから、ちょっと土がついてるくらいでいいのよ。あまり綺麗だと、不自然でしょ」

 

でも当時の私は幼過ぎて、もしくはほかことに意識が行き過ぎていて、まったく寝耳に水だったのに。でも時は経ち、今母親の想いが受け継がれていたことに気づきました。

見た目を美しくするために、少しでも長持ちさせるために、スーパーに並ぶ野菜や野菜は、人工的・科学的な処理がされていることも、多いのでしょう。最近ではカット野菜なども良い例です。

 

でも「野菜を摂る」本来の目的を考えると、そんな風に美しく機能的な野菜たちは、自然の一部のはずなのにその不自然さに違和感を覚えます。それらと引き換えにして、私たちは自分の身を削っていないだろうか、と思うのです。食べる前より、食べてから効果がある野菜を、私は食べたいんだけどな…、と。

 

もっといびつでもいい、ゴツゴツしたり、虫が食っていたり、土なんかまだベタっとへばりついたままでもいい!均一で、綺麗なパッケージに入っていなくてもいいから!

私は心の中で、そう強く!呟いていました。

 

そんな風に、大地に育ったその野生の力を、自然の営みの一部として私たちがいただき、命を繋でいく。 それが自然の中で生きていく、ということなんじゃないかなぁ。

もっと、皮ごと食べたいな、色んなことを気にせずに!切にそう思います。