先日、久しぶりにお店でプレゼント包装を頼んでみました。
日本の包装技術は世界でもトップクラスで、それは素晴らしいことである反面、過剰な包装はごみを膨大に出すという課題も抱えています。
以前住んでいたオーストラリアでは、プレゼントは各自買い自分で包装するのが普通。
つまりどちらにせよごみは出るのですよね。ただ意識次第で、例えば最小限の紙で包み麻の紐で縛るなど、自然に優しい包装をするのも自由なのがいい。
今回、いくつかの商品を買ったのでお店の人には「個別包装は不要なので、大きくまとめてください」と言ってみました。
すると「あ、はい…?」という反応だったので、もっとハッキリと「なるべくシンプルにまとめてもらえると嬉しいです」と伝えました。
このとき、ゼロ・ウェイストなど共通の概念を持っていないと、言葉は通じないのだと気づかされるできごとが…。次の瞬間、プラスチックを取り出す音が響いたのです。笑
「わざわざそれを伝えるということは、自然環境を配慮しているのかも」ということがわからない。その人が悪いわけでも誰が悪いわけでもないです。
そもそもプレゼント包装を頼んだのはこの私ですし。笑
でもこの人(私)はこういう趣旨であえてそんなことを言ったのだな、と理解できれば「プラスチックはどうしましょうか」と確認することもできる。先ほども触れましたが、背景(環境問題への意識)を共有していないとそれは実現しない。そう気づけたできごとでした。
さてプレゼント包装が完了し、その店員さんは笑顔で持ってきてくれました。一生懸命に包んでくれたことは一目瞭然、私もありがたく受け取ります。
実際、このプレゼント包装はセンスもよく、思わず「わぁ!」となりました。そして、そうそうこういう気持ちと共に贈りたいんだよな、と再確認。
プレゼント包装は贈り物をより美しく包みたいという「気持ちの表れ」。そしてそれを、私は大切にしたいのです。
ゼロ・ウェイストの媒体で書いていますし、私も自然に沿った生き方を探求&発信していますが、決して完璧ではないことは自分でもよくわかっています。そして完璧である必要もないことも。
先日も、取材先で立て続けにペットボトルのドリンクを用意していただきました。
ごみになりますよね、ペットボトルだもの。汗
一軒目では私だけが受け取り、編集さんや同行の方はお断りされていました。でも二軒目では編集さんも一緒に受け取りました。「どうぞ」と差し出してくれた方の温かみに触れたからです。
私は誰かが良かれと思って用意してくれたものは、ありがたく受け取る傾向にあります。笑。ただし、食品や使うものに限ります(さすがに明らかにごみにしかならないものは…)。
それは労いの気持ちや思いやりの表れだから、です。
ごみを出さないゼロ・ウェイストと人の気持ち、どちらかに偏り過ぎないようにしたいなと思います。
「ごみ=悪」として扱うばかりでは、大切なものを見失ってしまうかもしれない。でも必要でないのに「気持ちだから」と受け取り続けることも、また過剰を生み出してしまう。
エコやサステナブルなどのテーマを書く際に常々感じるのですが、バランスを保つことは「専門性とそうでない領域を繋ぐ術」のひとつかもしれないなと。
正義を振り回すことなく、倫理的な正しさ(エシカル)と自然や人への優しさを保つ。それって簡単なようでなかなか難しいですよね。
でも私はそこを目指したい。自然体でニュートラルにバランスよく生きたいのだと再確認したのです。
可愛いロゴのついたバッグや好みの色の包装紙に包まれたプレゼント、喜んでもらえると嬉しいなぁ!