エシカルノマドの指南書

世界放浪からオーストラリアへ移住後、物書きを生業とすべく帰国。自然に沿った暮らしをテーマに発信、今はエシカルとノマドの両立を目指す日々です

もう二度と戻れない旅路の余韻に溺れる【エッセイ】

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シャモニ近くのローカル線の駅にて(ワタクシです)

 

先日、「利便性を追い求めて、結局クオリティが下がるようなことがあったら、本末転倒だよね。」というような話を仕事関係の知人としていました。

 

そこから話は私の旅時代に及び、

 

旅というのは本来、不自由で不便で、だからこそ目的地に到着したり目標を達成したら感動するものだった…よね、と。

 

そもそも私の旅時代は、

 

【ないもの】

スマホ、ない。※デジカメとSDカードの予備マスト

グーグルマップ、ない。※レアな国だと10年前の「歩き方」のみ

SNSはかろうじて、mixi時代。※要パソコン

 

【重宝したもの】

テレホンカード ※700分とか話せる

インターネットカフェ ※今とは数が桁違いなはず

日本人宿の情報ノート

 

20代には想像もできないかもしれない、こんな「ないない尽くし」の時代は、たった10年ほど前のことなのですよ!

 

今では旅先でもスマホがあれば、まるで国内を旅するように誰とも話さずとも旅ができる時代になりました。私のころは聞いても聞いても、何も達成できない、ということも茶飯事で…。異国で言葉も通じないのだから仕方ない、と潔く諦める。それも旅の醍醐味だったように思います。

 

そして、

 

そもそも論ですが、今は旅の前提自体が大きく違う気がします。

 

未知の場所に出向き美しい写真を撮って、SNSで発信&共有し多くの共感やイイネをもらう、がゴール。現在旅行をしている層の発信を見ていると、そんな印象がするのはきっと、私だけではないはずですよ。

当時は現地人に混ざった方が安全だったから着ていた女性も多いでしょう、インドのサリーやムスリムヒジャブなども、今は「インスタ映えする!」存在のようです。実に軽やかです!

 

そもそも、修行じみた旅は求めていない、冒険も求めていない、美しいものをたくさん見たい&シェアしたい!みたいな、ね。※あくまで私の見解ですYO

 

さらに旅を仕事にしている人も多く出てきていますね。

実際の舞台裏は色々あるはずですよ、そりゃあ、旅だもの。ですがテクノロジーの恩恵によって「個々の編集する力」も格段にアップしてきています。そういう発信をする人のリーダー格はインフルエンサーと呼ばれるらしいですが、彼らによって異国への旅はハードルがどんどん下がっているようにも感じ、なるほど立派な役割だと思うわけです。

 

ただ、その知人と話しているうちに、私が夢中で積んだ経験というのは、もう二度と戻れない一時期だけの貴重なものだったのだと再確認したのでした。「不便さのなかの豊かさは絶対にあるよね。」というのが、冒頭の話の内容です。

 

そう、あの不便さも、不自由さも、アナログさも、全て全てが。

 

そのおかげで五感は研ぎ澄まされ、常に頭の後ろにもうひとつ目を付けているような状態。視線はキリっと引き締まり、当時は顔つきがキツかったと言われたこともあります。苦笑。

 

情報交換はすれ違う旅人同士の間でなされるもので、世界中の日本人宿にはたいていすでにこの地を訪れた旅人たちが残した「情報ノート」なるものがありました。

そういう情報を得たいがためだけに、新しい地で最初の数泊を日本人宿ですることもあったほどです。今でもあるのでしょうか、旅人の手垢でぼろぼろになった情報ノート達は…。

 

同じような旅人と出会わず、言葉も通じず、孤独な日々を過ごした土地もありますが、今ならきっとアプリなどで旅人同士集って、その場限りでも時間をシェアできることもあるのだろうと思います。それもまた素晴らしい!

 

ただ、もう二度と戻れない、という意味においてあのような「不便な旅」というのは、私にとって大きな価値があることは確かです。あれほどに世から切り離されたように地球を彷徨う経験というのは。それを思い、旅路を思い出し、しばしその余韻にどっぷりと浸かってしまう始末…。

 

かくゆう私も、またいつか旅に出ることもあるでしょう。

 

でも次回は私もきっと、現代の機能的で快適な、新しいスタイルの旅をするであろうことに、正直どこか少し安堵しているのでした。